<日々のニュースや体験などを通して考えた事柄>
天職
天職(続き)
ノーサイドゲーム(GM)2019.10.14
ノーサイドゲーム(ヤマハラグビー)2019.10.14
ジョブ型人事制度 2020.4.24
個人事業主という働き方 (タニタ)2019.12.3
事業承継 2019.12.11
ドキュメントの効用 2020.4.30
出向を経験して分かったこと 2020.5.3
ヒヤリングの要点「何を知るべきか」2020.5.6
限界利益の意味とその活用 2020.5.8
改善の壁にどう向き合うか 2020.5.17
一橋大学の卒業式(H27.03.20)において蓼沼宏一学長が内村鑑三の言葉を引用しながら下記のように述べている。
『皆さんには、いろいろな期待を申し上げましたが、みなさん一人ひとりにとって、これからの人生は「天職」を見つける旅路だと言えるかもしれません。冒頭に私は皆さんに幸多かれと祈りましたが、天から与えられたと思える職を見出すこと、自分が自分らしくあり、社会で生き生きと活躍できる場を与えられることほど、幸せなことはないでしょう。
その天職について内村鑑三は「如何にして我が天職を知らん乎」において、次のように述べています(一部省略)。
天職を発見するの法は今日目前の義務を忠実に守ることであります。天職は之に従事するまでは発見することのできるものではありません。予め天職を見附けて置いて然る後にこれに従事せんと思う人は終生、其天職に入ることの出来ない人であります。
皆さんは、これからそれぞれの選んだ職に就いていきます。はじめから天職についたと思える人は、ごく稀れです。内村鑑三がいうように、日々の職務を忠実に実行する中で、徐々に天から自分に与えられた使命が何であるかが見えてくるものなのではないでしょうか。』
母校の同窓会報の入学式、卒業式の学長挨拶記事において、これから学ぶ人、巣立っていく人への慈愛にあふれたメッセージを見る。僭越ながら自分も情報システム、経営企画、人事、事業推進(子会社)と経験していつもこれが自分の天職と思ってやってきた。子会社では採用の企業説明会では学生たちに「やりたい仕事に就くことよりも就いた仕事を好きになる」よう語ってきた。
当ホームページのふじのくに論文塾の中の「キャリアの自己分析にもとづく能力開発の要点」は天職発見のプロセスが書かれているのでお読みいただければ幸いである。
同じく平成8年の入学式での阿部謹也学長の言葉である。
『私自身一橋大学において二人の優れた教師に出合い、その出会いが私の学問の出発点になったのであります。その一人は卒業論文のテーマを決めかねていた私に「それをやらなければ生きていけない問題を探せ」と言ってくれました。それは容易な事ではありませんでしたが、そのような問題を探そうと努力する中で私の学問の道がついてきたのだと思います。この課題を私はこれまでの人生をかけて追い求めてきました。この一言がその後の私の学問の道を決めたと言って差し支えないと思います。簡単に実現できないような課題を立てることが大切です。一生かかって解決し得るような課題を抱え、それを中年になっても追い求める姿勢が生まれてくるのです。』
私は40歳で会社が用意してくれた40歳ライフプラン研修をうけ、45歳で中小企業診断士資格を取得し、いつかは地元の中小企業のお役にたちたいという考えをもっていた。阿部学長のことばは50歳をこえたばかりの私の背中を押してくれた。現在、古希を超えたが一生かかって追い求める姿勢は続けたいと考えている。
池井戸潤氏作の「ノーサイドゲーム」はラグビーチーム「アストロズ」の再生の物語である。この物語には、①かつての名門で、今は入れ替え戦を戦うほど凋落しているアストロズを復活させ強敵サイクロンを打倒する、②親企業の役員からお荷物扱いされているアストロズの事業基盤を強化する、③親企業ときわ自動車の中堅商社買収問題、主導する役員、反対する役員の勢力争い、この三つのストーリーが絡み合って展開される。私はGMの苦闘、成長の物語と見たい。
主人公である君嶋隼人が経営戦略室から横浜工場総務部長(アストロズGMを兼ねる)に左遷されたときからこの物語は始まる。なぜ自分がという思いに島本社長は「ゼネラルマネージャーに求められているのは、ラグビーの知識やスキルじゃない。いわばマネジメントだ、君嶋くん。君こそ適任だと思うね」と送り出す。
ラグビーには何の興味もない君嶋であったが、持ち前の使命感、行動力を発揮していく。低迷していた名門大学を3連覇に導いた柴門琢磨を監督に招へいし、サポーター拡大に向けて地域へ情報発信、ラグビースクールの開催等でホームゲームの集客に成果をあげる。意に沿わないGM就任だったが、「俺はラグビーが好きだ」というまでになる。
本作品はわが国トップリーグの問題、GMのあり方を提起している。ワールドカップ2015で日本代表の活躍で一時盛り上がったが長続きできなかった。地方での試合ではさびしい集客である。
GMが関わるステークホルダーは監督・選手・スタッフ、親会社の経営者・社員、サポーター、リーグ組織、メディアと幅広い。GMの役割はチームを強くできる戦略と指導力を持った監督を決める、監督が腕を振るえるようバックアップする、会社の支援を引き出す、入場者・サポーターを増やして財務基盤を確立する、トップリーグを盛り上げることである。「ノーサイドゲーム」によって一つのGM像が提起された。トップリーグの活性化を期待する。
「ノーサイドゲーム」のアストロズの姿は、私が応援するヤマハ発動機ジュビロ(以下ヤマハ)に重なる。ヤマハは親会社がリーマンショック後の経営不振でチームの縮小を余儀なくされ、下位に低迷し入れ替え戦をなんとか乗り切った。翌年、就任した清宮克幸監督のもとチームを立て直し、4年目(2015年)で日本選手権を制した
私は清宮氏が監督に就任して二つの変化に気が付いた。一つは選手がトップリーグ優勝を口にしていること(目標を持つ) こと、 二つは戦った試合から課題を見つけていることである。日本選手権で優勝した年、リーグ終盤で神戸製鋼に大敗した。パナソニックや東芝との残りの試合をすべて勝たないとプレーオフに出られない、それを実現した。三村主将(当時)は「神戸製鋼が自分たちの弱いところを教えてくれた」と語った。試合で学んで次に生かすことができた。選手のことばから監督の方針が選手に理解されていることが分かる。
チーム力は強化されたが、事業基盤である集客は「ノーサイドゲーム」で君嶋が指摘しているように課題は多い。地域に向けてラグビースクールや選手とのふれあいイベントは行われているが、対戦相手によっては入場者数がさびしい思いのすることもある。パナソニックのように日本代表でも戦力外となる分厚い選手層のチームがあるが、戦力格差は大きい。トップリーグの戦力を近づけて競った試合を増やしたい。手に汗握る試合が増えれば入場者は増えるのではないか。
日経新聞2020年4月21日号に「さらば平等ソニーの覚悟」というタイトルで新人から給与格差をつける人事制度改革が紹介されている。米IT大手「GAFA」との人材獲得競争が激しく今の若者にソニーブランドが通用しないという現状認識がある。初任給に差をつけるソニーの取り組みは、責任や役割に応じて報酬を変える「ジョブ型」を意識している。採用に当たっては面接で職種ごとに70コースを提示し学生は第3希望まで選ぶ。日経新聞2019年12月24日号では三井住友火災保険が「データ分析の専門家であるデータサイエンティストなどでジョブ型採用を検討する」ことが報道されている。
ジョブ型人事制度で高い専門能力をもった人材の採用を可能とし国際競争力を高める意図は理解できるが、運用面を考えると解決すべき課題はある。
例えば、専門職種を希望する求職者が必要な専門能力をどうやって身に着けるのか、採用企業が必要とする能力の有無を見極められるのか、入社後に専門能力が低いまたは能力発揮が十分でないと分かった時の扱い、本人の求めるレベルの仕事および処遇を会社が常に用意できるのか、それに関連して専門人材の流出をどう防ぐのか、等々である。
学生の場合は大学・大学院で学ぶことで専門性を身に着けるというより、趣味が高じて専門性が身についた、技能を生かしてお金稼ぎする、究極は自分で事業を起こすといったキャリアを持つ人、つまりその分野の研究実績や実務実績を評価する。こうしたキャリアの人を長期的に社内につなぎ留めておくのは難しいが、そこを承知の上で戦力として活用する。一定期間経っても採用時の評価の甘さや入社してからの伸びなやみ等、会社の期待に応えられない場合はどうするか。先のソニーの記事に「欧米のジョブ型は高い報酬を払い配置転換も命令できない代わりに、職務を全うしていないと判断すれば解雇理由となりえる。」とある。経団連では「解雇するのではなく別の仕事をしてもらう日本的なジョブ型が望ましい。」としている。タニタは雇用契約をやめ(退職して)個人事業主として今までやっていた仕事を業務委託している。個人事業主は契約した仕事を果たせば他社の仕事ができる。個人事業主は今までの給与相当を委託料として保障される。本社所属の社員の1割が個人事業主である。報道では個人事業者の満足度は高い、今後に注目したい。
※IT業界において巨大で支配的・独占的な複数の企業(Google・Amazon・Facebook・Appleの4社)。
「健康機器大手のタニタは社員との雇用契約を切り替え、業務委託で作業を依頼する制度を導入。今は本社所属の社員の1割が個人事業主だ。」と日経新聞2019年9月22日付は伝えている。働き方改革において裁量労働制を突き詰めていくと、個人事業主型になると考えているがまさにその先進例が紹介された。厚労省は裁量労働制の対象業務として、専門業務型裁量労働制および企画業務型裁量労働制の二つの類型を挙げている。
「専門業務型裁量労働制」は業務の性質上、業務遂行の手段や方法、時間配分等を大幅に労働者の裁量にゆだねる必要がある業務。研究開発、デザイン、ゲームソフト創作、アナリスト、会計士、弁護士等19業務。「企画業務型裁量労働制」は事業運営上の重要な決定が行われる企業の本社などにおいて企画、立案、調査及び分析を行う労働者を対象。いずれも業務の遂行方法等に関し使用者が具体的な指示をしないことが運用の要件となっている。
裁量労働制は専門職制度と深くかかわっている。定型的業務ではなく専門性が要求されるため、管理者の指揮・指導にそぐわない類型の業務である。したがって仕事の難易度=価値の評価が重要になる。これだけの仕事(アウトプット)をいくら(対価)で行うという契約になる。谷田社長は日経ビジネス誌のインタビューで「当社から新たな仕事を頼むときは、明らかにこれまでの業務と違えば『いくらくらいで追加業務としてお願い』というやり取りが行われています。」と語っている。
現在は本社社員230名中1割強の26名が個人事業主として契約している。裁量労働制と専門職制度は深く関係している。個人事業主制は専門能力の身についている社員を前提にしている。退職して契約することは勇気のいる決断であり、提供する価値と報酬(対価)が常に評価される。自らを甘えを許さない立場に置く、背水の陣であり、能力向上、即、価値向上となりプロ意識は高まる 。今後とも注目していきたい。また個人事業主型の働き方が成功する要件、課題も考察したいと考えている。
浜松で開催された事業承継セミナー(2019.12.10)に参加した。2番目の講師である道上佳弘氏は経営改善計画事業でご一緒し、また自分が始めた論文塾の参加メンバーである。論文塾のテーマも事業承継に関するものだった。この春、公募された事業承継支援事業のブロックコーディネータに採用された。道上氏の事業承継への並々ならぬ思いを以前からして知っていたのも参加の理由である。紹介された事例は建築塗装業、和菓子店、不動産経営の3件であるが、いずれも家業的な経営で事業承継と遺産相続が絡んでいて当事者同士では会話も難しい。道上氏は税理士としての専門性を生かしながら経営者家族に寄り添いながら一歩ずつ前に進めているのが伺えた。
3番目の講師は天竜区の商工会の職員(女性)であった。講師の発表では天竜区は浜松市の面積の6割を占めている、すなわち広いということである。人口は2万8千人、商工業者は1500社と少ないが事業承継の相談受付件数は県内商工団体で2位と多い。相談企業は地域に根差した商工業者と推察する。商工業者の廃業は地域住民へのサービスの利便性低下につながる、職員は巡回において「何気ない会話の中から会員さんの事業承継支援の必要性を感じて、自然に相談会を紹介するようにしている。」と報告した。あの広い地域を日々、巡回し会員のニーズをくみ上げているのを聞いて胸が熱くなった。
道上さん、商工会職員さんも強い使命感をもっていながら自然体で相談者に接している。静岡県西部には心強い支援スタッフの存在することを確信した。
私は記録に残すことを大事にしている、というよりドキュメントできることが強みと考えている。お客様との打合せ内容が主だが、手応えのあった仕事、新しい分析手法を取り入れた仕事等はできるだけその経緯をドキュメントとして残している。その中から中小企業経営診断シンポジウムの論文応募や中小企業診断協会の広報誌(企業診断ニュース)へ投稿することもある。これまでシンポジウムでは3回応募して2回入選できた。企業診断ニュースへも2回投稿し掲載された。2012年からは自身が主催する「ふじのくに論文塾」論文集にも掲載している。(注)コンサル報告書も労をいとわず大事だと思うことは書き物にして残している。
私が主題を設定して本格的に論文作成に取り組んだのは、名古屋市立大学大学院の修士論文である。中高年サラリーマンの活性化をテーマとし、指導教官から何度もダメだしをもらい留年を重ねてやっと完成させた。この時の投げ出さずにやり遂げた経験が力になっている。
その後従事した業務ソフトの顧客開拓では、お客様の現状の問題点をヒヤリングし、生産管理ソフトを使って業務改善し、目標の定性・定量効果を実現するストーリーを提案書として作成した。お客様が社内で提案評価するときに説明なしでも理解できるようにわかりやすさに留意した。提案書の内容で千万円単位の受注の成否にかかわる、真剣勝負の場で“伝え方”を磨いた。
中小企業診断士として中小企業の経営改善に関わるようになってからはコ、ンサルの都度の報告書を重視した。その日または翌日には作成し、次回のコンサル時には前日に前回の報告書を頭の中に入れて臨んだ。
手応えがあったプロジェクトはできるだけ小論文にして冊子に残す。自分のコンサルを理解してもらう、お客様の教育に役立っている。口で言うより説得力があり、記録として残すことで「引き出し」が増えていく。
自分の関心テーマである「働き方改革」について裁量労働、専門職、同一労働・同一賃金等、行政や産業界の動きについて自分の考えをまとめている。知人に見てもらい意見を聞いて自分の考えを検証している。
先にドキュメントすることは強みと述べたが、初めからできたわけではない。今でも得意ではない。私はこの30年余、日記をつけていて日記をつけて一日が終わるのが習慣になっている。ドキュメントも同じでやってないと気になる。やり続ければ習慣になる。
注:ふじのくに論文塾のページ参照ください。
私は会社員生活のうちの2/3にあたる25年余を子会社で過ごした。定年後は中小企業診断士として活動しているが、出向体験があったから今の自分があると考えている。最初の出向は1976年、30歳代の初め、子会社の生産管理システムプロジェクトのリーダーとしてであった。投資金額も大きく稟議者の作成、社内関係者への根回し、ソフト・ハード業者との交渉等、初めての経験をした。今ではプロジェクト管理のメソッドがあるが、当時は自分で考えるしかなかった。プロジェクトを進めるうえでの課題・障害多々直面し試行錯誤を続けた。一日置きに管理職の昼食会が開かれ会社の経営情報や課題を聞き、親会社の社長が子会社の社長を兼務していて数か月に一度は出席するので親会社にいたらとても近くで聞けないような話しを聞けた。なんとか生産管理システムを完成させた頃、親会社が経営危機を迎え、グループ全体が経営再建に取り組んだ。新社長のもと子会社の再建活動の事務局を担当した。これも初めての経験だったがコンサルタントの指導で進めた業務改善活動が成果を上げ、グループ全体に刺激を与えることになった。ここでは社長のアイデアを計画に落し込み組織に展開することを身につけ、定年後のコンサル活動において役に立った。
次の出向は1992年、40歳代の後半、ソフト開発子会社の管理部長であった。バブルの崩壊の影響で右肩上がりの需要が落ちて仕事のない社員を目の前にして、自ら業務ソフトの顧客開拓に走り回った。アポイントの電話を掛けることも初めてだった。どうしたら自社の業務ソフトの良さを理解してもらえるかを考えて、セミナーによる集客、セミナー客のアンケートをもとにターゲットをきめて顧客開拓を行った。ここではセミナーの企画、プレゼンの要点、提案後のフォロー等、個人事業主として役立つ経験を積めた。年度末になってその期の黒字着地が懸念される状態が3期続いた。そのため事業部長となってから予算に対して実績がプラスか、マイナスなら挽回可能な範囲に収まっているかをウォッチする習慣ができ、後のコンサルで生きた。
出向先での仕事はその会社において先例のない仕事で、自分で企画し組織を動かして実行することが多かった。また出向先は本社の1/10、1/100と小さく、その分経営に関わっているという意識も強かった。中小企業診断士として地域の経営者に向き合い、ヒヤリングし提案するときに経営者の気持ちを理解できたのではないかと考える。
自分のコンサルティングにおいてヒヤリングとドキュメント作成は一体であり、コンサルティングの質にかかわる重要な要素と考えている。ヒヤリングにおいて“何を聞くか”はその後の成果を左右するといってもよい。仮説が大事で“何が分かれば、どういうことが 言えるか”ということである。なぜその質問をするか相手にわかること、相手の言ったことを口に出して確認すること、”おっしゃったのはこういうことですね”。 ”れだ!うまく言えないけど、それを言いた かったんだ“ というように。
興味があること 聞きたいことでなく、知るべきことを聞くことである。自分は生産管理が詳しいのでコンサルを始めたころは質問がそこに偏ってしまうことに気が付いた。そのためには事前に知りえた情報をもとに支援先のプロフィールや課題を仮説する。想定される課題を念頭に質問項目を準備する。例えば収益改善が課題なら限界利益、固定費の関係を知りたい、納期短縮が課題なら製造工程、工程ごとの製造期間、客からの要求納期を聞く。
どこにムダ(改善余地)があるか、どのくらい改善が見込まれるかをざっくりと掴むのがヒヤリングの目的の一つである。経営者は自社の悪さ加減(ムダの多さ)は漠然とは意識しているが、行動を起こすまでには認識していない。同業との比較(ベンチマーク)で自社のポジションを示すのは効果的である。経営者に自社の悪さ加減を強く認識してもらうこと、“改善が出来そう、できる”と思ってもらうことがヒヤリングの二つ目の目的である。
参考資料:「中小企業支援の成功は初期診断が肝心」ふじのくに論文塾のページ参照
私は支援先の経営分析において、限界利益の額および対売上比率を重視している。限界利益は売上高から仕入費や外注加工費などの外部購入費を差し引いたものと説明している。もう一つ付加価値という概念もある。付加価値の計算には「控除法」と「加算法」がある。控除法は限界利益と同じ計算式である。計算式が同じなので似た概念と考えていた。一方でその違いははっきりとしていなかった。2019年12月25日付の日経新聞掲載の茅陽一氏の「私の履歴書㉔」に、エネルギー・環境モデルについて「現状から追加的に1トンのCO2を減らすのに必要なコスト(限界費用)」という記述があった。限界の使われ方が分かった気がした。
生産工学用語辞典では付加価値を「生産を通じて新たに生み出された価値」と、限界利益を「生産量一単位の増加に対する利益の増加分」と定義している。価値の意味を言っているのが前者で、価値の増え方を言っているのが後者であると理解した。
限界利益率や一人あたり限界利益額を同業と比較すると、経営者に自社のポジション(同業より低いことが多い)を知ってもらえる。同業のデータはTKC経営指標をネットで検索できる。
なぜ限界利益は経営分析に役立つのか。営業利益は「限界利益-固定費」であるので、営業利益を増やすには「限界利益を増やす」 「固定費を下げる」ことが必要となる。限界利益を増やすには「売上を増やす」「限界利益率を高める」。限界利益率を高めるには「変動費を下げる」 「売上単価を上げる」 「利益率の良い製品の売上を増やす」 。売上単価を上げるのは相手があって容易ではない。変動費を下げるのは材料のムダ排除や生産性を上げて派遣人材を減らすことなど自分の努力次第で可能となる。このようにどこを攻めるかがわかりやすいので、私は収益改善が課題の場合は限界利益分析を活用している。
事業計画の試算にも固定費、変動費、限界利益は便利である。事業構成が変わらなければ限界利益額は売上高に比例する。固定費はその名の通り売上高に比例はしない。原価改善実施計画を織り込んで期ごとの限界利益率を設定し限界利益額を計算する。
ふじのくに論文塾:「中小企業が経営改善をやり遂げるために~壁をどうやって乗り越えるか~」参照。
戦後のベビーブームの初期1947年生まれが定年退職を迎える2007年を控え、熟練労働者の技能伝承が課題となった。私は2005年秋から㈱浜名湖国際頭脳センターの客員研究員として中小企業の技能伝承支援にあたった。50社近くの会社を訪問し社長、役員から、2007年問題への対応をヒヤリングした。面談者のほとんどが問題意識を持ってはいたがすぐに動き出しそうにない会社が2/3くらいあった。2007年問題は確実に起こるのになぜ経営者は動こうとしないのかを考え続けた。
その頃、中小企業白書に「日ごろ働いている中で仕事や職場への不安・問題」という調査データを見つけた(注)。「高度な技能を教える方法や手順が未整備」、「多忙で教育訓練の時間が確保できない」、「社内に指導的人材がいない」が上位を占めていた。この「方法・手順、時間確保、指導人材」が壁になって改善が進まないのは自分が漠然と考えていたことと同じだった。そこで3つの改善の壁をどうやって取り払うのか考えてプログラムを作成した。方法・手順は、一部の大企業で活用されていたCUDBAS(クドバス)を開発者の森和夫博士の許しをいただいて中小企業版にアレンジした。中小企業ではプロジェクト活動の時間確保が容易ではない。まず全8回、1回2~3時間のワークショップとし、その日時を初めに社長に決めてもらった。指導人材は初めから存在することはないのでプロジェクト活動を通して育成することした。
おかげで2007年までの2年余、10社以上の中小企業の技能伝承をお手伝いすることができた。改善の壁があることに気が付いてその後取り組んだ経営改善計画作成でも応用した。
(注)雇用開発センター「中小企業におけるものづくり人材の確保・育成に関する調査事業」
2012年以降、経営革新等支援機関(認定支援機関)として、抜本的な取り組みを金融機関から求められている中小企業の経営改善に取り組んだ。何期も経常赤字を計上している企業がほとんどである。はじめて訪問して経営者の話しを聞いて「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」と思った「会社の経営状況が悪いとは思っていない」、「今は悪いがそのうち良くなるんじゃないか」と3つの壁の前に経営者の意識の壁があることに気が付いた。壁ごとにアプローチの仕方は変わってくる、これを体系化し自分のコンサル手順に織り込んだ。本ホームページの「ふじのくに論文塾」の「中小企業が経営改善をやり遂げるために ~壁をどうやって乗り越えるか~ 」に詳しい説明がある。
浜松市中区鹿谷町に犀ヶ崖(さいががけ)古戦場跡がある。そこに夏目次郎左衛門吉信旌忠碑※がひっそりと立っている。母校浜松北高校から2~300mのところにあるので碑の存在は知っていたが、碑の主人公を知ったのは恥ずかしながら60歳を過ぎてからである。
私は宮城谷昌光氏(愛知県蒲郡市出身、浜松市北区三ケ日町在住)の小説を愛読しており「新三河物語」で夏目吉信のことを知った。吉信は三河一向一揆(1563年)が起こると主君よりも信仰を選んで家康に逆らったが、のちに許されて家康の家臣に戻った。
三方原の戦い(1573年)で家康が敗れると家康を逃がし自らは追手の中に切り込んで討ち死にした。吉信は、一度は背いた家康から許された恩義を自らの命で返したのである。本多正信も一向一揆で背いて、のちに許されて帰参して家康の懐刀となった。この碑を見るたびに家康と三河武士と言われる家臣団の絆を感じる。家康は敵対した武田家臣団も召し抱えて井伊の赤備えと言われる精強部隊を作っている。
三方ヶ原の戦いでは家臣は籠城を勧めたが、若い家康は信玄に引き出される形で戦いを挑み、完敗した。この敗戦を生かして関ケ原の戦いで西軍を引き出して勝利を収めた。
作家の夏目漱石は夏目家の末裔と言われる。
※忠魂碑はウィキペディア「夏目吉信」に写真が掲載されている。